自然哲学者たちのラ・ラ・ランド:Schumann, "Hobbes und Gassendi"

Schumann, Karl,(2004). "Hobbes und Gassendi" in Edited by Piet Steenbakkers and Cees Leijenhorst, Selected papers on Renaissance philosophy and on Thomas Hobbes, Springer, pp. 219-225.

 ホッブズの『物体論』の現代的な校定者としても知られるカール・シューマ(1941-2003)の選集から、ホッブズガッサンディに関する短い論文を読んだ。なお、論文自体の初出は1995年*1

 

Selected papers on Renaissance philosophy and on Thomas Hobbes

Selected papers on Renaissance philosophy and on Thomas Hobbes

  • 作者:Schuhmann, Karl
  • 発売日: 2010/12/01
  • メディア: ペーパーバック
 

  本筋とは関係ないが、追悼の意味も含んで編まれたこの選集の序文には、編者であるステーンバッカースとライエンホルストシューマンの業績を紹介している。その中では、シューマンはフリショフ・ブラントの1928年の論文以来、はじめてホッブズの自然哲学に注意を向けた研究者であると述べられている。シューマンの業績を称えるために大げさに言っている部分もあるだろうが、ホッブズの自然哲学に関する研究が20世紀後半まで乏しいことは、研究者の間でも共有されていることが伺える。

 本論文はホッブズガッサンディの関係を整理しており、資料的価値が高い。両者は友人同士であり、しかもどちらも唯物論者である。この意味で両者の関係には様々な仕方で言及があるのだが、実証的にはどこまで言えるのだろうか。以下、簡潔にまとめる。

出会いと友好

 ホッブズの草稿の編纂者としても知られるジャコ(Jean Jacquot)はガッサンディイングランドからの亡命者たち、とりわけホッブズに対して影響を与えたと主張する。これに対して、著名な科学史家であるコイレ(Alexandre Koyré)は、そうした影響関係を信じる理由は乏しいと否定する。この両者の議論の相違は、ホッブズガッサンディの関係をめぐる判断が幅広いものであることを示している。ホッブズガッサンディは7年間(1641-1648年)に渡って同じ街に暮らし、メルセンヌらを介した学術的な交流があった。状況的に見れば、いかなる影響もないとは考えにくい。しかし、だからといってホッブズの著作にガッサンディへの実質的な言及を見出すことも容易ではない。両者の関係を探る際の難しさはこの点にある。

 両者は宗派が異なるにもかかわらず、友好関係を持った。その最大の理由は、どちらもガリレオの運動原理を指示し、自然現象を機械論的な唯物論によって説明することを目指していた点だ。そのためか、ガッサンディは1641年に"De Motu impresso a Motore translato"の草稿をホッブズに送った。それを読んだホッブズは彼に出版を勧め、この草稿は1642年に出版されることになる。

 ホッブズもまた1641年末には『市民論』の草稿を完成させ、翌年には私家版として公刊した。ガッサンディがその内の一冊を持っていたことは間違いない。というのも、彼の『哲学集成』の倫理学を扱った箇所で、『市民論』が批判的に扱われているからだ。

 ホッブズの次なる著作は、今日では『トマス・ホワイト批判』として知られる自然哲学の大著だ。メルセンヌの薦めによって書かれた同書は、カトリック司祭のトマス・ホワイトのアリストテレス主義を批判し、ガリレオを擁護するものであった。しかし、その見解のラディカルさゆえに、やがて姿を消してしまう。おそらく、ガッサンディは当時パリにいた他の自然哲学者と同様に、この著作にも目を通していたと思われる。

 ガッサンディの『エピクロスの生と死』は死後の1659年にはじめて出版されるが、ホッブズは1644年10月以前にはその草稿を読んでいたと思われる。ホッブズガッサンディの哲学を「アリストテレスと同じくらい包括的であるが、はるかに真実味があり、優れたラテン語で書かれている」と評価した。とはいえ、この著作がホッブズの『物体論』などに影響を与えたという確かな証拠はない。

 両者は唯名論と機械論的な自然観において一致していた。また、デカルトの二元論的な人間学には共通して反発しており、それは両者の『省察』に対する批判において読みとることができる*2ガッサンディが1644年に『形而上学討論集』を公刊した際には、ホッブズはそこにデカルト批判が収められていると聞いて非常に喜んだという。

 両者の相互交流が明確に確認できるのは光学に関してのみである。1646年、ホッブズは「光学についての第一草稿」を完成させる。その中では、ガッサンディの1641年の著作において示された太陽の大きさについての観察に言及されている。

 また、1646年に『市民論』の改版が企画された際には、メルセンヌガッサンディは推薦状を書いている。これは出版者向けに書かれたものではあるが、著者たちの意志に反して、いくつかの版では印刷されている。この推薦状の中で、ガッサンディは尋常ではないほどにホッブズの著作を称賛している。

 1647年の終わり頃、ホッブズは病に倒れ、生死の境をさまよっていた。自伝によると、メルセンヌホッブズを見舞い、カトリックに改宗させようとした。しかし、ホッブズはその申し出を断り、「ガッサンディはどうしていますか?」とだけ答えた。この逸話は両者の友情を示しているだけでなく、ガッサンディの方が宗教に関してよりリベラルな立場であったことを暗示しているかもしれない。

転換と別れ

 1648年初頭、ホッブズの思想に重大な変化が起きていた。彼はそれまでの著作に見られる真空に関するテーゼを捨て、「充満論者Plenist」になった。これはガッサンディの自然学の基礎のひとつに反対することに他ならない。おそらくガッサンディはこのことに気付いていたが、それによって両者の友情が壊れることはなかった。この都市の夏、2人はニューカッスル侯の催した宴に参加している。1648年11月、ガッサンディは健康上の理由でパリを離れることになった。1649年9月22日付のホッブズからガッサンディへの現存する唯一の手紙の中で、ホッブズガッサンディを学問的にも人格的にも優れた人物であると称賛している。

 ホッブズもまた、1651年にはイングランドに帰国し、自然哲学の研究に専念する。1655年にようやく公刊された『物体論』の献辞においては、ガリレオケプラーと並んで、ガッサンディメルセンヌの名が挙げられている。念頭に置かれているのはおそらく天文学的な著作であろう。ただし、『物体論』本文の中では明確に「エピクロスの学説にしたがって来た人たち」への論駁、すなわち原子論批判が展開されている。もしかすると、ここでの批判で念頭に置かれていたのは、ガッサンディが真空に固執していたことかもしれない。ただし、このことは確実な仕方では言えない。

 イングランドに帰国してから、ホッブズガッサンディがどのような仕方で交流を持っていたのかは詳しくわかっていない。ガッサンディは1655年10月に亡くなるが、これに対してホッブズがどのような反応をしたのかも不明だ。

 1656年にホッブズはディグビーやガッサンディから感覚についての学説を盗用したのではないかと問われる。ホッブズはそれを否定した上で、彼らはエピクロスの学説に近いことを述べているが自身はそうではないという主旨の解答をしている。こうした反応にどのような意図や戦略があったのかは定かではないが、ホッブズガッサンディが死去した途端にその学説に目を背けたように見える。実際、ホッブズ自身のガッサンディに対する直接的な言及はこれが最後であり、自伝においてその思い出が回顧されることはない。さらに、ホッブズが1658年に公刊されたリヨン版ガッサンディ著作集を細かく研究した形跡もない。

 最後に、『物体論』の出版(1655年6月)とガッサンディの死(1655年10月)の間の数ヶ月の差に触れておく必要がある。『物体論』が印刷されると、そのコピーはガッサンディの手にも渡った。ソルビエールの証言によると、ガッサンディは同書を受け取ると、それに接吻し、「この本は分量こそ小さいが、最高の核心に満ちている」と述べた。ライプニッツもまた、エーリヒ・マウリティウスがほぼ同様のことを述べていると書いているため、この出来事の信憑性は高い。ここで分量が「小さい」と言われているのは、『物体論』全体ではなく、ガッサンディの名前が挙げられた『物体論』冒頭の献辞を指しているからであると思われる。

 おそらく、ガッサンディは健康上の理由から冒頭部を読む以上のことはできなかっただろうし、この著作への批判に本格的に取り組むことは不可能であっただろう。しかし、興味深いことに、1658年版の『シンタグマ』には、ホッブズの『物体論』第27章第2節からのほぼ完全な抜粋と、批判が掲載されている。最もありえそうな説明は、死後の編者がガッサンディの意を汲んで当該箇所を加筆したのではないか、ということだ。このことは、ガッサンディホッブズの理論の変化などをおおよそ知っていたことを意味する。また、リヨン版ガッサンディ著作集には更なる研究が期待される。

メモ

 拙いまとめではあるが、ホッブズガッサンディの関係が近くて遠いものであることは十分に理解できるだろう。両者はパリで出会い、光学やデカルトへの対抗、機械論的自然観といった部分では一致していた。その一方で、ホッブズはやがて真空の存在を否定し、原子論から遠ざかっていく。この点では、両者の最終的な体系には根本的なすれ違いが生じている。何よりも、双方ともに相手に対する直接的な言及は極めて限定的であり、その影響関係を確定することは容易ではない。

 おそらくホッブズガッサンディとの関係を見極めるためには、原子論や唯名論のような大きな枠組みでアプローチするのではうまくいかないだろう。デカルトへの批判の共通点と違いや、光学についての論考などをより細かく検討する必要があるように思う。シューマンの筆致は2人の自然哲学者がある街で出会い、交流し、別れるまでの過程を言ってしまえばロマンティックに描いているように見える。

*1:in Rolf W. Puster (Hrsg.), Veritas filia temporis? Philosophiehistorie zwischen Wahrheit und Geschichte (Berlin – New York: Walter de Gruyter, 1995), pp. 162–169.

*2:ホッブズの批判は「第三反論」、ガッサンディのそれは「第五反論」として『省察』に収められている