機械論者の倫理学:Sarasohn, "Motion and Morality"

Sarasohn, Lisa T. (1985). “Motion and Morality_Pierre Gassendi, Thomas Hobbes and the Mechanical World-View” in Journal of the History of Ideas, Vol. 46, No. 3 , pp. 363-379.

ホッブズガッサンディの関係についてもう少し知りたくて、少し古いがサラゾーンの論文を読んだ。本稿は両者の機械論と倫理学に焦点を当てている。以下、ごく簡単なまとめ。

 

初期の2人

 本稿の前提となるのは、ホッブズが慣性運動を心理学や政治学を考えるための「パラダイム」として用いたというスプラージェンスの研究である*1。慣性運動はガッサンディにおいても重要な意義を持っている。ただし、ホッブズが社会理論の科学的妥当性を強調するためにこうしたモデルを用いたのに対して、ガッサンディ唯物論的な自然哲学とキリスト教を和解させようとしている。

 ガッサンディが慣性運動をアナロジーとして用いるようになったのは、1641年にホッブズと出会った後である。この意味で、ガッサンディホッブズの弟子だ。しかし、彼は単なる追従者ではなく「師」を超えようとしたし、両者の関係は相互依存的である。ガッサンディは古代原子論を復興しようとしたが、その際にキリスト教の学説と矛盾しないように細心の注意を払った。彼は原子論的な世界観に神を導入し、それぞれの原子が持つ運動は神によって与えられたと考える。

 ホッブズの心理学研究は『小論』の執筆によってはじまった。この論考の中では、自然と人間がどちらも必然性によって決定されると主張される。動物精気・脳・魂・欲求・意志などはいずれも固有の運動原理を持っておらず、善悪は外的な運動から必然的に生じる接近や忌避へと向かう運動に他ならない。人間における自己保存の衝動は、物体における慣性の法則から導き出されている。サラゾーンはこうした初期のホッブズの心理学や政治理論に対するガッサンディの直接的な影響を重視する。

ガッサンディの葛藤

 ところが、ガッサンディは1637年頃から哲学と宗教の間の葛藤から、研究を一時中断することになる。彼がとりわけ不安を感じていたのは、エピクロス主義がもたらす道徳的な帰結だ。彼が思い描く原子論的な宇宙は自然の必然性によって決定されるものであると同時に、万物に宿る神の計画の発現であるとも考えていた。このため、ガッサンディは完全な機械論を受け入れることはできなかった。

 一方、ホッブズは容赦なく機械論的決定論を突き詰めていく。1642年の『市民論』では、「各人は、自分にとってよいことを欲し、自分にとって悪いこと、わけでも死という自然の諸悪のうちの最大の悪を逃れるように駆り立てられており、しかもそれは、石を下方へと駆り立てる必然性に劣らないある自然の必然性によってだからである」と述べている*2。人間は善悪へと必然的に駆り立てられ、それは石が下に落ちるのと同じ意味での自然的必然性だと明白に述べられている。

 ガッサンディは自らが決して陥ってはならない機械論哲学者の姿をホッブズの内に見出したのかもしれない。1641年以降、ガッサンディは自らの哲学における神の役割を拡大させ、あらゆる運動を単なる決定論に委ねるのではなく、人間の自由の余地を確保しようとした。

2つの自由

 1642年から1646年の間にかけて取り組んだ『倫理学』において、ガッサンディは自由についての二重の概念を明らかにしている。すなわち、自由(Libertas)と欲動(Libentia)*3だ。前者の自由は真の自由であり、強制と因果的決定の両方から自由であり、非決定と選択の自由を持つ。これに対して、後者の欲動は、意志的運動、自発的行為と同じものであり、子供や動物が事前に熟慮することなく何らかの行為へと動くことだ。ガッサンディデカルトへの反論の中でも、確実性よりも蓋然性を重視した。認識論的な議論においても、人間は非決定の自由を持っているのである。ガッサンディによれば、欲動や意志的運動には自然の衝動にしたがうという意味では、(外的な)強制力はなく、その意味では自由である。しかし、その自由は熟慮をする人間だけが持つ真の自由とは区別されなければならない。

 ホッブズにはこうした区別はない。喜びと苦痛は慣性運動を基礎にしている。物体が運動を継続するように、人間が自らの生を継続するために心臓を喜ばせるための活動は善であると考えた。ガッサンディはこうした議論を知っていた可能性は高い。ただし、ホッブズが知覚や表象、熟慮といったものを物体的(かつ受動的)な運動に還元してしまうのに対して、ガッサンディはそうした主体としての人間を受動的なものとは考えない。理性は行為の前に能動的な役割を持っており、選択の自由が存在する。

 ガッサンディは最終的に、人間は自由と欲動の両方に位置していると考える。原子が常に運動するように、人間は常に快楽を求める。だが、人間知性には非決定が存在する。彼にとって、神は宇宙を摂理によって支配し、その支配は運動によって表現される。ただし、人間だけは特別な摂理によって支配されているため、他の被造物とは異なる仕方での自由を持つ。こうして、ガッサンディホッブズが言うような自由を引き下げ、真の自由を擁護するのである。ガッサンディにとって、科学と宗教は決して対立するものではないのだ。

 

コメント

 全体的にガッサンディの「葛藤」についての記述に重点が置かれており、ホッブズ側の説明や両者の対比などは、思ったほどは書き込まれていない。おそらくはホッブズにはガッサンディのような繊細な葛藤は見られず、機械論的な倫理学についての基本的な方針はブレていないからであろう。ホッブズは自由の区別や人間の特権性といった議論にほとんど興味を示していない。

 本稿の観点はおそらく、ホッブズとブラモールの自由意志論争を考える上でも重要だろう。ブラモールもまた、ホッブズが言う自由を軽蔑し、そうした自由とは区別される「真の自由」が存在すると主張した。ホッブズを読んだ人間の多くが直ちに主張したくなってしまう「真の自由」は、ガッサンディにおいても認められるのかもしれない。

 ただし、ガッサンディに対するホッブズの影響関係についての実証的な証拠についてはいえば、やはり状況証拠(交流関係や著作の出版年代など)に留まるということだろうか。おそらく、ブラモールに対するホッブズの反論のいくつかは、ガッサンディがここで述べている議論にも当てはまるだろう。ガッサンディホッブズを意識していたなら、逆もあっていいようなものだが、どうにもそれは見つからない。ますますホッブズガッサンディの関係が奇妙なものに感じられる。

*1:Thomas A. Spragens, The Politics of Motion: The World of Thomas Hobbes (London, 1973

*2:『市民論』第1章第7節、本田裕志訳40頁

*3:libentiaについての定訳や、もっとよいと思われる訳語がある場合はお知らせください。