「リヴァイアサン」の諸相:Mintz, Leviathan as Metaphor

Samuel I. Mintz.(1989). "Leviathan as Metaphor", in Hobbes Studies, vol. ii, pp. 3-9.

https://doi.org/10.1163/187502589X00023

 

リヴァイアサン狩り』(The Hunting of Leviathan, 1962)で名高いミンツの論文。ホッブズが自らの主著に「リヴァイアサン」と名付けたことの含意を解き明かす。主な論点となるのは大きく2つである。

  1. リヴァイアサン」という語はメタファーとしてはどのように用いられてきたか
  2. ホッブズはメタファーについてどのような位置づけを与えたのか
メタファーとしてのリヴァイアサン

 『リヴァイアサン』というタイトルに目を引かれないものはいない。もちろん、ホッブズにとってのリヴァイアサンが国家とその主権の強大さのメタファーであることは明らかだ。だが、なぜ彼はあえてこの神話的かつ詩的なタイトルを書名に用いたのであろうか。

 リヴァイアサンは聖書の中で何度か登場している。「イザヤ書」27:1では、主の剣によって殺される海蛇や竜のような、神の敵として描かれている。ただし、ホッブズが採用しているのは、「ヨブ記」における強大な海の獣という比較的中立的なイメージである。

 こうしたリヴァイアサンの語義や解釈については、カール・シュミットをはじめとする一連の研究が存在する。リヴァイアサンは必ずしも悪として描かれるだけではなかった。良いイメージの代表例はユダヤ的伝統において権威を持つマイモニデスだ。彼はリヴァイアサンを知性の霊的な力のシンボルであると考えていた。一方で、キリスト教的伝統においては、「イザヤ書」の悪しきイメージが強調され、神の力によって倒される悪魔として描かれることがあった。この伝統はルターやボダンといった宗教改革期の著作にも見られる。ただし、徐々に悪魔的なイメージから力としてのイメージへと変化していく。

 17世紀において、「リヴァイアサン」という語は莫大な富や権力を持つ一人の人間を意味するようになる。シュミットはこれを「世俗の権力」や「主権」が形成されていく過程と考えた。こうした流れの中で、「リヴァイアサン」の語が持つ意味もホッブズのそれへと近づいていく。たとえば、1641年にはウェストミンスター会議の註解の中で、「リヴァイアサンは単独の生き物ではなく、複数のものが合わさって一つになったものである」と述べられる。また、1637年のシンドラーの辞典では、リヴァイアサンが「王」や「元首princeps」のメタファーとして用いられると述べられる。

 現代においても、こうしたリヴァイアサンのイメージとホッブズの主張を重ねる議論は盛んだ。たとえば、フロイドは分割された諸個人が結合して強大な力としての主権が出来上がることに注目している*1。また、ホッブズリヴァイアサンを「ヨブ記」から引用したことに注目し、ヨブの苦しみを自然状態における人間の苦しみと重ね合わせたというグリーンリーフの解釈もある*2

 「リヴァイアサン」という語の用法がホッブズのそれに接近していることは明らかだ。とはいえ、彼自身がこうしたリヴァイアサンについての語義的伝統をどの程度取り込んでいたかについては明確なことを述べることはできない。彼が利用できた図書室には様々な聖書の註解があるが、それらを読んだというたしかな記録があるわけではない。

ホッブズにとってのメタファー

 ここから問題は第二の点に移る。もしホッブズリヴァイアサンをめぐるメタファーの伝統の中に置くとして、彼はメタファーの意義をどのように認めていたのだろうか。一見すると、彼は論理的な陳述でないメタファーや文飾を哲学的な推論から注意深く除外しているように思われる。

 にもかかわらず、『リヴァイアサン』冒頭部では、「リヴァイアサン」を「国家state/civitas」や「人工の人間」と置き換え、国家と人体のアナロジーを語っている。また、同書第17章ではリヴァイアサンは「可死の神mortal God」と呼ばれる。これはメタファーを積極的に活用していることになるのではないか。果たして、ホッブズはメタファーに真理としての価値を認めていないのだろうか。

 この問いに対して、ホッブズはメタファーを完全に完全に放逐してしまったわけではないとミンツは答える。なるほど一方では、メタファーは分析的真理や事実の陳述ではなく、美学的な喜びのために用いられるものである。だが、ホッブズは「全修辞学The Whole Art of Rhetoric」や「ゴンディバートの序文への解答」において、アリストテレスの定義に依拠しつつ、メタファーを「ある名辞を他の名辞に置き換えること」としつつ、それによって「ある種の知識a kind of knowledge」をもたらすと述べている。それは名辞と名辞の関係に思いもよらぬ発見をもたらすことがある。つまるところ、メタファーとは推論や分析の過程において、補助的な働きをすることになる。

 では、メタファーは自然的世界についての真理を導き出す機能を持っているのであろうか。ホッブズの同時代人であるサー・トマス・ブラウンは、メタファーについてミクロコスモスとしての人間身体とマクロコスモスとしての自然世界が照応していると考え、それに真理としての意義を部分的に認めている。ホッブズはこうした意味でのメタファーの真理性を認めない。というのも、彼にとっては外的世界についての陳述とは、それがメタファーであるか否かにかかわらず、真理ではなく、「信念belief」だからである。ある陳述がより真らしいといったことはあるが、人間理性から独立に外的世界の真理を保障するものはない。ドロテア・クルックも述べるように、「理解可能な世界は与えられるのではなく、人間精神から引き出される」のである*3。つまり、ホッブズにおいて、外的世界は所与のものとして存在するのではなく、人間精神によって創造されるものなのである。 

 メタファーは真理との関係を持ってはいるが、真理そのものを指示することはない。メタファーには推論過程における虚構的な性格が残っている。ただし、ホッブズは行為としての言葉に重きを置いており、これはオースティンの「発語行為illocutionary act」に近い考えだ。もっとも、オースティン自身は文学や虚構的な言語使用には必ずしも積極的に述べていない。しかし、ホッブズにとってそれらの言語使用はある種の創造なのである。

 彼の同時代人であるトマス・ウィルソンは「神は文法的な言葉(生の音声)でのみ語ったのではなく、真に存在する事物で語った」と述べている。神は実際に様々なものを「あれfiat」という仕方で生じさせる。これに対して、人間は神が創造した諸事物に名前をつける。神が実際に事物を創造することを、詩人や哲学者は言葉を遣って模倣しているのである。この考えはホッブズにも通じる。彼は『物体論』と『リヴァイアサン』の序論において、神の創造を模倣すると述べている。

 このため、リヴァイアサンというメタファーは想像的な真理の運び手である。詩人と哲学者は虚構的真理であるメタファーを用いる。ここでの虚構的真理とは文飾や撞着語法ではあるものの、ホッブズが無意味な語と呼んだものではない。ホッブズは合理的な世界の中心に自然状態、主権、そしてコモンウェルスを置くように、想像的な世界の中心それと関連する諸部分であるリヴァイアサンのメタファーを置いた。この2つの世界は詩人や哲学者の精神の外側に存在するものとして解釈されるべきではないものの、どちらの世界も真理を主張している。

メモ

 既に「リヴァイアサン狩り」の方にある程度書いてしまったせいかもしれないが、ホッブズの同時代人たちが「リヴァイアサン」という語をどのように受け止めたのかには触れていない。思いついた範囲で書いておくと、ドゥッパ(Brian Duppa)は「リヴァイアサン」という書名を奇妙と受け止めつつも、「詩編」104:25の神が作った海で遊ぶ巨大な海獣を念頭に置いている。また、ロス(Alexander Ross)は「ヨブ記」と「イザヤ書」だけでなく、やはり「詩編」を念頭に置いた鯨のイメージに言及する一方で、「黙示録」において神を冒涜する獣にも関連付け、どちらかといえばリヴァイアサンの悪魔的イメージに注目している。なお、「リヴァイアサン」の語源的研究についていえば、ノエル・マルコム版『リヴァイアサン』のイントロにも言及があある。

 後半については、やはり推論とメタファーの違いがより具体的に問題にされなければならないだろう。この論文では両者はともに外的世界との対応関係を持っていないことになっている。そのような考え方をとることはもちろん可能だが、ホッブズ自身の言葉からどの程度正当化できるかは、別の議論を立てる必要があるように思う。

*1:Julien Freud, "Le Dieu Mortel", 1969.

*2:W. H. Greenleaf, "A Note on Hobbes and the Book of Job", 1974.

*3:Dorothea Krook, Three Traditions of Moral Thought, p. 105